熊本地方裁判所 昭和46年(ワ)259号 判決 1977年5月11日
原告 井上精五郎 外一名
被告 国 外一名
主文
一 被告らは各自原告らに対し各々金二二〇万円および内金二〇〇万円に対する昭和四六年二月八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを八分し、その七を原告らの、その一を被告らの連帯負担とする。
四 この判決中原告ら勝訴の部分に限り、原告らにおいて各々金八〇万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。
五 被告らにおいて原告らに対しそれぞれ金一〇〇万円の担保を供するときは右仮執行を免れることができる。
事 実 <省略>
理由
一 成立に争いない乙第二、三号証、原告井上昭子本人尋問の結果によれば、原告らの一人息子である亡真一郎が、昭和二四年九月九日出生、熊本市立出水中学校、九州学院高等学校を経て、昭和四四年四月神戸学院大学に入学在学中の学生であつた事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
(なお、付言すれば、原告らは本訴提起時から昭和五一年四月三〇日の原告井上昭子本人尋問において被告ら代理人の反対尋問を受けるまで、あくまで亡真一郎は神戸大学在学中の学生である旨主張立証し、その後甲第七七号証の原告ら作成の陳述書において、右誤りは原告らが初めに、訴訟委任した弁護士が間違つたことによるもので、必ずしも原告らにその責任がない旨述べるけれども、原告井上昭子本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第二五号証の一によれば原告らが弁護士に委任する以前に熊大付属病院長に送つた抗議の手紙において既に亡真一郎を神戸大学法学部学生としていることが認められるのであつて、原告らにおいては故意に亡真一郎の在学大学を偽つていたものというべきである。)
二 前記乙第二、三号証、成立に争いない同第四号証、同第六六号証、原告井上昭子本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第七二号証、同本人尋問の結果によれば、亡真一郎は昭和三二年四月(七才時)感冒で三八度程度の熱を出し、足痛を訴え、近所の開業医、接骨医の治療を受け、同年秋学校の集団検診で心臓肥大を指摘され、昭和三三年四月(八才時)感冒で前年と同様の症状を呈し開業医の治療を受けたが症状は改善せず、同年五月一三日から六月三日まで熊大付属病院小児科に入院、発病当初からの症状と同病院の検査の結果リウマチ性心内膜炎と診断されたこと、その後一二才時まで関節痛および微熱を時々訴え治療を受けていたこと、昭和三九年一一月(一五才時)微熱、関節痛で開業医の治療を受けたが症状悪化し、同年一一月二二日から昭和四〇年三月三日まで同病院第二内科に入院し、遷延性心内膜炎と診断され、中学三年をやり直して卒業し、高校時代はさしたる健康の異常はなく、体育実技の際柔道をしたこともあつたことなどが認められ、右認定に反する証拠はない。
三 前記乙第四号証、同第六六号証、成立に争いのない甲第一号証の一、二、同第四六ないし第四八号証、原告井上昭子本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第三三号証の二によれば、亡真一郎は昭和四四年一〇月頃から全身倦怠を覚え、軽度の運動、坂道を登る時など著明であり、昭和四四年一二月末頃より感冒に罹患し、昭和四五年一月末頃感冒が持続し発熱、咳、呼吸困難が強くなり同月二九日神戸大学医学部付属病院で受診の結果心不全で直ちに入院治療することをすすめられ、帰省して、熊大付属病院第二内科に昭和四五年一月三〇日から同年二月二〇日まで入院し、当時発熱、脈拍不整、呼吸困難(起座呼吸)があり、ジキタリス飽和の療法を受けたこと、その後は症状も軽快し、退院後シンセペン服用の処方を受け再び神戸の大学に復帰したが、同年四、五月頃から全身にやや倦怠感があり階段の昇降などで心悸亢進を覚えるような状態であつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
四 前記甲第四六、四七号証、同第七二号証、原告井上昭子本人尋問の結果によれば、亡真一郎は昭和四五年七月八日少し疲れるということで熊大付属病院第二内科高浜教官の診察を受け、レントゲン検査とシンセペンの投薬を受け、同月一六日、二七日、同年八月三日にわたり、心臓専門医の同内科田上教官の診察を受けたところ、僧帽弁挟窄兼閉鎖不全および大動脈弁閉鎖不全症で僧帽弁狭窄が主体をなしており、交連切開手術(僧帽弁の入口を外力で拡張する)の適応として、同病院第二外科に紹介されたことが認められる。
五 前記乙第六六号証、成立に争いない同第六七、六八号証、原告井上昭子本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第七三号証、同本人尋問の結果によれば、亡真一郎は昭和四五年八月五日同病院第二外科で中村講師の診察を受け、前記交連切開手術を行う予定と告げられ、手術日を同年一二月一七日と定められたが、右手術の危険性については交通事故に遭遇する程度の率である旨告げられたことが認められ、この際中村講師が場合によつては交連切開手術ではなく僧帽弁置換手術(僧帽弁を切除し人工弁と置換する、従つて危険率は増加する)を行う必要があるかもしれない旨告知したとの点については証人中村良昭の証言、被告井正行本人尋問(第一回)の結果によるもこれを認めることができず、他に本件全証拠によるもこれを認めるに至らない。そして、前記甲第四六、四七号証、郵便官署作成部分の成立につき当事者間に争いがなく、その余の部分の成立は前記甲第七三号証の記載により真正と認められる甲第二二号証の一、二によれば亡真一郎は大学を休学することとし、その後も同年八月一七日、三一日、九月一四日、二八日、一〇月八日いずれも同病院第二内科に外来診察を受けたことが認められる。
六 前記甲第七三号証、成立に争いない乙第七二号証、証人中村良昭の証言によれば、亡真一郎は手術準備のため昭和四五年一一月一一日同病院第二外科中村講師の診察を受けたところ、体重は同年八月から八キログラム増加し(急激な体重の増加は身体中に浮腫が起こつていることを意味する)、脈拍不整あり、レントゲン検査の結果心臓の肥大も大きくなつており、同年八月より総じて症状は進行しており、中村講師より内科で症状の改善を図るよう指示を受け、同月一六日同病院第二内科田上教官の診察を受け、同月二六日同第二内科に入院したことが認められ、右認定に反する証拠はない。
七 前記甲第七三号証によれば、亡真一郎は同年一二月七日カテーテル検査を受けたが機械の故障で失敗し、同月二二日再度の検査を受け、右第一回目のカテーテル検査が失敗に終つた二、三日後に手術が昭和四六年一月二一日に延期されたことが認められる。
八 前記甲第七三号証、原告井上昭子本人尋問の結果によれば、右第二回目のカテーテル検査の結果が判明するといわれた同年一二月二五日、原告井上昭子は第二外科に中村講師を尋ねたが不在で(同講師は昭和四六年一月から国立熊本病院へ転勤することになつていた)、かわつて被告井が検査の結果を説明し、僧帽弁閉鎖不全が強いので手術は僧帽弁置換手術となること、右手術における生命の危険率は平均一五パーセントであるが亡真一郎は自覚症状がでていないから危険率はより少ないこと、手術をするには今が一番適当の時期である、人工弁も現在は外国製の優秀なものがあるから心配は要らないこと、執刀は被告井が担当する、手術の諾否は同月二九日までにするように等の説明を受け、原告らおよび亡真一郎はこれを承諾し、昭和四六年一月一一日亡真一郎は手術のため同病院第二内科から第二外科へ転科したことが認められ、右認定に反する被告井正行本人尋問(第一回)の結果は前掲証拠に照らして採用せず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。
九 前記甲第七三号証、官署作部分の成立につき当事者間に争いがなく、その余の部分の成立につき原告井上昭子本人尋問の結果真正なものと認められる甲第二〇号証の一、二、同第二三、二四号証の各一、二、原告井上昭子、同井上精五郎本人尋問の各結果によれば亡真一郎の友人であつた訴外中尾公二がたまたま昭和四五年暮に東京女子医大付属病院で一〇人に四人程度は死亡するといわれてフアロー四徴症の手術を受けたところ、これが成功した旨の手紙を受取り、原告らとしては次第に亡真一郎の手術を東京女子医大付属病院に依頼したいと考えるようになり、手術予定日の五、六日前の昭和四六年一月一五日頃被告井にこの旨電話したところ、被告井より原告らにすぐ来るよう要請があり、原告らにおいて同日午後七時頃第二外科病棟検査室で被告井と面接し、右転院の希望を述べたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
一〇 前記甲第七三号証、原告井上昭子、同井上精五郎本人尋問の各結果によれば、被告井はこれに対し
1 東京女子医大付属病院での人工弁置換術を見学したが、不手際があり一週間後に再手術したことがある
2 東京女子医大付属病院では地方から研究に行つた若い先生達が心臓手術をするが熊大付属病院は熟練した自分達がするから安心である
3 東京女子医大付属病院では同医大で開発したサム弁という信用不明の人工弁を使用するが、熊大付属病院ではスター弁という米国製の一番信用できる弁を使用する
4 熊大付属病院で僧帽弁置換手術を受け、成功してダンプの運転手とか看護婦をして働いているものがいる
5 手術における生命の危険率は一五パーセントだけども亡真一郎は症状が出ていないので一番手術に適しており危険率はより少ない
6 現在のままであるなら亡真一郎は寝たきりで三年位しか生存できない
7 どこに行つても結果は同じ、自分達も東京女子医大付属病院に負けることはないから自分を信頼して任かせてくれ
などと述べたことが認められ、右認定に反する被告井正行本人尋問(第一回)の結果、成立に争いない丙第一号証の記載は前掲各証拠に照らして採用しない。ことに被告井は右本人尋問および丙第一号証のなかで、ダンプの運転手とか看護婦をしている者がいると述べたのは、僧帽弁を開く(僧帽弁交連切開手術)のみで治癒する患者もあるとの説明をしている際、たまたま原告井上精五郎がそういう患者は現在何をしているのかと質問したので、これに答えたものであつて、僧帽弁置換手術をなした患者のことを話したものではない旨述べるけれども、成立に争いない乙第七号証の四、証人松田正和の証言によれば、被告井が原告らと面接した一月一五日頃の時点では、既に第二外科の内部で検討の結果亡真一郎に対し僧帽弁置換手術を行う、場合によつては(僧帽弁置換後、大動脈弁閉鎖不全症が増強するようであれば)大動脈弁置換も、すなわち二弁の置換もやむを得ない旨決定されていたことが認められるので、右の事実からして当時の被告井と原告らの話合がより軽度の交連切開手術を対象としてなされたものであるとは考え難いことや、さらに、前記甲第七三号証、成立に争いない甲第一九号証、原告井上昭子本人尋問の結果によれば、亡真一郎の死亡後の昭和四六年三月一四日被告井は原告らに対し右ダンプの運転手とは直視下(人工心肺を使う)僧帽弁形成手術を受けた訴外前田優である旨述べたのに、本件訴訟提起後当裁判所においては被告井正行本人尋問(第一回)の結果により認められるとおり、右ダンプの運転手とは非直視下(人工心肺を使わないで閉鎖式で行うもの)僧帽弁交連切開手術を受けた訴外渡辺語である旨供述をかえたこと、郵便官署作成部分の成立につき当事者間に争いがなくその余の部分につき原告井上昭子本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第二六号証の一、二、右本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第四一号証、原告井上精五郎本人尋問の結果によれば、右前田優は職業は農業で自動車の運転免許は持たず、右渡辺語は自動車専門学校の技能指導員であるがトラツクの運転をした経験はないことが認められ、これらの事実を考え合せると、前記被告井の供述および丙第一号証の記載は到底これを採用することができず、他に前示認定を覆すに足る証拠はない。
一一 原告井上昭子、同井上精五郎本人尋問の結果によれば、原告らおよび亡真一郎は前説示の被告井の説明を真実であると信じ亡真一郎が熊大付属病院で手術を受けることを承諾したものであることが認められる。
一二 前記甲第七三号証、成立に争いのない甲第七八号証、乙第七号証の八ないし二八、証人松田正和の証言、被告井正行本人尋問(第一回)の結果によれば、被告井は昭和四六年一月二一日亡真一郎に対し術者として直視下の僧帽弁置換手術を実施したこと、亡真一郎は手術後殆ど意識が覚醒することないまま同年二月七日死亡したこと、死亡の直接の原因は急性腎不全であり、これを惹起した原因は手術後の心臓の血液拍出力の低下により腎臓が乏血状態となつたためであり、その他食道潰瘍、胃出血斑、一二指腸潰瘍、消化管内出血等もみられたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
一三 ところで、被告井正行本人尋問(第一回)の結果真正に成立したものと認められる乙第一号証、同被告本人尋問の結果によれば、熊大付属病院においては過去に僧帽弁置換手術は三例あり、昭和四三年三月六日訴外川口トメヨに対し、昭和四四年一二月一日訴外佐藤弘に対し、昭和四五年一二月八日訴外平島美保子に対し右手術がなされたが、右三例とも死亡の結果に終つていること(うち佐藤弘は手術後六ケ月間生存し肺炎により死亡したものであるが、その間手術による血栓症により殆ど意識を回復しなかつた)、そのうち被告井は川口トメヨにつき助手として、佐藤弘、平島美保子につき術者として手術したものであることが認められ、結局、熊大付属病院についても、また被告井に限定しても、亡真一郎の手術以前に僧帽弁置換手術の成功例はなかつたことが認められる。
なお、原告らは同病院において亡真一郎の手術前フアロー四徴症の手術も一〇例以上あつて全員死亡している旨主張するけれども、右乙第一号証によれば手術は二〇例、そのうち九名のみ死亡であることが認められ(成立に争いない甲第八五号証によれば乙第一号証の記載に一部誤りがある旨の記載があるが、その引用する甲第七〇号証と併せても、これのみでは未だ右誤りある事実を確定することができない)、この点についての原告主張事実はこれを認めることができず、また僧帽弁置換手術とフアロー四徴症の手術の難易を直ちに同一視することはできないから、本件の場合この点の比較をする実益はない。
一四 そこで、手術を行う場合の医師の説明義務につき考えるに、およそ医師は僧帽弁置換手術等生命の危険を伴う手術を実施するに際しては、原則として、患者あるいはその家族に対し、患者の病状、手術の内容、手術による症状改善の程度、手術をしない場合の症状の程度、余命年数、手術における生命の危険性につき、患者があえて危険を伴つても手術を受けるか否かを自由かつ真摯に選択できるよう説明をする義務があることはいうまでもなく、かつ手術に伴う生命の危険性については単に一般的意味の危険性のみでなく、その施設における過去の実績についても判断の資料としてこれを説明する義務があるものと解するのが相当である。
この点につき、被告井は僧帽弁置換手術の危険率は一五パーセントであり、熊大付属病院において右手術を受けた患者のうちダンプの運転手、看護婦として稼働しているものがあるとして、あたかも同病院において手術の成功例があるが如く述べているけれども、同病院において過去に右手術の成功例がなかつたことは前説示のとおりであり、前記甲第七三号証によりもし原告らおよび亡真一郎において右事実を知悉していれば手術の承諾をしたとは認められないから、被告井は故意に虚偽の事実を述べて原告らおよび亡真一郎から手術の承諾を得たものというべく、このような承諾は真摯かつ有効なものとはいえないから、被告井のなした僧帽弁置換手術も結局承諾なくして行われたことに帰し、被告井は故意に虚偽の事実を述べて僧帽弁置換手術をなしたことにつき不法行為による責任を免れないというべきである。
なお、原告らは、熊大付属病院は東京女子医大付属病院より人的物的設備においてはるかに劣るのに、被告井はこれを隠蔽しあるいは不当に評価した旨主張し、成立に争いない甲第三六号証、証人中村良昭の証言によれば昭和四六年の文献による東京女子医大付属病院の僧帽弁置換手術の成績は、病院死は七三例中一九例(二六パーセント)、晩期死は五四例中五例(九・四パーセント)であつて成功率からすれば東京女子医大付属病院の方が多いといえること、また証人中村良昭の証言によればICU(集中治療看護部、大手術後の患者等死にひんしている重症患者だけを、特定の施設に収容し、特別に訓練された看護婦、医師により集中的に管理する)につき、東京女子医大付属病院においては早くからこれを採用しているのに比し、熊大付属病院では漸く昭和四七年頃から採用したにすぎないことが認められるけれども、しかしながら同証人の証言によればICUによらず術後に執刀医あるいは主治医が付添つて回復にあたる方式にも利点がないとはいえないこと、東京女子医大付属病院が開発したサム弁は現在使用中止になつていることなども認められるのであつて、必らずしも過去の症例が多いことや、新しい術後管理組織を採用していることなどから、東京女子医大付属病院が人的物的設備などすべての点で熊大付属病院に勝ると断定することはできないし、他に本件全証拠によるも原告の右主張事実はこれを認めることができない。
また、原告らは被告井は場合によつては大動脈弁置換手術も予定していたのにこれにつき原告らに対し告知しなかつた旨主張する。そして、前記乙第七号証の四によれば、被告井ら第二外科の心臓研究班は昭和四六年一月一六日の術前症例検討会で僧帽弁置換手術の他に、場合によつては(僧帽弁置換後、大動脈弁閉鎖不全症が増強するようであれば)、大動脈弁移植もあり得る旨決定していたことが認められる。しかしながらこの点については証人松田正和の証言、被告井正行本人尋問(第一回)の結果によれば原告井上昭子において大動脈弁置換もしなければならないことを非常に心配しており、被告井あるいは松田医師においておそらくその必要はないだろうと返答していたことが認められ、成立に争いない乙第七号証の一、二によれば結局大動脈弁置換までの必要はないものとしてその手術はなされなかつたことが認められるから、この点について被告井が故意あるいは過失により虚偽の説明をしていたものと認定することはできない。右認定に反する甲第七三号証、同第八五号証の記載の一部は前掲証拠に照らしにわかに採用せず他に右認定に反する証拠はない。
一五 以上認定のとおり、被告井は過去に熊大付属病院において僧帽弁置換手術の成功例がある如く述べて、亡真一郎および原告らに本件手術の承諾をさせ、僧帽弁置換手術を行つたことにつき原告らに生じた損害を賠償する義務あるものというべく、被告井正行本人尋問の結果により被告井は右手術当時熊大付属病院に在職しその職務の執行として右行為をなしたことが認められるから、被告国は被告井の使用者として同じく損害賠償の義務があるというべきである。
一六 損害<省略>
一七 結論<省略>
(裁判官 松田富士也 関野杜滋子 西島幸夫)